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こんにちは、メリです

僕らは生まれた時からある意味監視を受けて育ってきました。それは無知であるからして危険な目に合わないようにするためと、集団の中で勝手な事をしないように。

僕の家は祖父の代から厳しい家庭だったのと、僕自身が難聴で生まれているから余計に守られてきたように思います。

そして他人からだけではなく強大な力を持った監視者が常に自分を見張っています。それは人工衛星でもなく、マイナンバーでもなく、自分自身だということは薄々分かっているのではないでしょうか。

例えば、「いただきます」を言わずに食べ始めてしまうと罪悪感を覚えてしまう人がいます。いただきますを言わなかったら人工衛星からレーザー光線が飛んできてお仕置きをされるんでしょうか?それとも母親からテレパシーが飛んできて「いただきますを言いなさい!」と話しかけられるんでしょうか?(ある意味テレパシーが送られてくる。)

誰といてもいただきますを言わない罪悪感を感じさせるのは自分自身の中に染み付いた習慣であり誰かが常に見張っているわけではありません。

習慣という物は繰り返し繰り返しやっていく中で身についていくものであり、学校でもこぞってみんなで「いただきます」を言うことをしていたはずです。友達の家に食べに行くときにも「食べる前はちゃんといただきますって言うのよ」と。

いただきますを毎回毎回ちゃんと理解して心から言っている人はどれぐらいいるのでしょうか。みんながそうしているから自分も同じ行動をとっていませんか?

少なくとも日本で育ったなら集団的な常識があらゆるところに散らばっていて、「人と違うこと」をするとすごく目立ちます。それが称賛されることもあれば白い目で見られ非難を浴びることもあります。世の中の常識から外れると感情を伴い非難してしまうので厄介です。

日本の教育を否定したいのではありません。しかし世の中の常識に従い良い人でいることは、常に変化する世の中やいろんなタイプの人がいる社会でとても生きにくくさせるものでもあります。

もし、今の自分の生活にものすごく息苦しさを感じているなら、学生の頃から染み付いているみんなと同じことをしている習慣をもう一度考え直し、違うやり方もあるのだと常識を破ってみるのはどうでしょうか?

もう先生に怒られることはありません、通知書を付けられることもありません。知らぬ間に自分自身で監視していることを止めてしまってもだれも文句は言いません。

いらぬ習慣は今後の人生を強く大きく決定付けていきます。常識を破って他のやり方を試してみてから元のやり方を選ぶのもよし、もっと他に良い物がないかと探ってみるものよし。小さな事からでも自分の殻を破ることに意味があります。

一歩外に出た世界は面白いところですよ。

さあ、まずは「いただきます」を言わずに食べるところから始めてみて下さい、人生観が少しずつ変わっていきます。

 

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