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こんにちはメリです

僕は物心ついてから成長するにつれ、耳に障害を持っている劣等感が日に日に増していきました。

自分が普通の人と比べ「普通」ではない、聞き取れないことでいつも端っこに追いやられてました。人と接する直前から毎回毎回とても勇気のいる人生でした。

まるで毎日が面接日のように、自分の順番が回ってくるときのあの気持ちに似ています。

人と違うとは

耳に障害を抱えていることで僕自身は「人間としてある一定のレベルより下」という概念が、心の土台にどっしりと構えています。

土台がそうなっているので何をするにもまず「劣等感」からスタートして考えてしまいます。そんな考えでいるうちは「ダメで元々」と思いながら行動し「劣っている」という考えが前提なので、その場をうまく切り抜けられても次にまた同じような緊張をすることになります。

やってみれば意外と大丈夫だったというのと似ていて少し違うのです。

例えば、

・バンジージャンプには怖いイメージがある。でも勇気を出して挑戦してみたら意外と楽しかった。

・走るのが遅くて徒競走が嫌いだ。でも参加してみたらみんなこけて一位だった。

前者は「食わず嫌い」のように以前に経験がないけれどもやってみたら面白かった、面白くなかったになるケース。

後者はコンプレックスがあり、どうにもできない土俵に立たされる事を強いられたが、運よく周りが脱落した事により結果が良かった。次回も良い結果が得られ自信が付くかと言われれば極めて低いと思えます。

僕の耳に対するケースは後者の方で、運動会のように年に一回のような頻度でなく毎日がそれにあたります。

耳が良く聞こえるようになるには、手術でもして奇跡的に成功すれば解決することなのにとばかり思っていましたが、ある時ふと気付きました。

そもそも「ある一定の基準に合わせにいくこと」そのものを辞めようと思いました。どうにもならない事に対して挑戦し続けることにロマンを感じているならまだしも、苦しくてもがいて途方に暮れる人生は終わりです。

「ある一定」という物がやっかいなのは、大半が同じ状態という群集による影響力の強さが「自分はそれ以下」に感じる人にとって心をポキッと折ってしまうことです。

昔よく言われました。「耳が悪いかもしれないけど気にしなくていいんだよ、君は十分普通なんだ」と。それを言われたときは自信が湧いていたのですが、焦点が「耳が悪くても普通の人」になってしまい、実際聞き取れてないことに対して何も解決になってないということです。

焦点を変えます。

「ある一定」と違うという事はどこかしら抜きんでている物があるはずなのです。僕で言うなら、耳が悪い事で人の目を強く気にするようになりました、でも人の目を気にして生きてきたおかげで人が傷ついたり、相手が何をしてほしいのか感じとり細かい気遣いができるようになっています。「何で分かったの?」と言われることがしばしばです。

自分では気づけてない長所はまだまだある気がします。短所があるということは長所も表裏として存在する。それをひとつひとつ掘り起こしていけば「自分が伸ばすべき長所」が見えてくるはずです。

今までコンプレックスで頭の中がいっぱいになっていた自分とはさようならです。

よく「天才とバカは紙一重」というように人と違うことで抜きんでるものがある、ある日を境に人と違う部分がすごく輝くようになる物を持っている運の良い人なわけですよ。

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